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石山源氏 下
[イシヤマゲンジ]

ジャンル 地唄・箏曲
山田流
作曲者 千代田検校
調弦 箏:半岩戸調子-雲井調子
三絃:低二上り-三下り
  そもそも桐壺きりつぼの、ゆうべの煙すみやかに、法性ほうしょうの空にいたり、
  箒木ははきぎの夜の言の葉は、終に覚樹かくじゆの花散りぬ、
  空蝉うつせみの空しき此の世を厭ひては、夕顔の露の命を観じ、
  若紫の雲を迎へ、末摘花すえつむはなうてなに座せば、紅葉の賀の落葉も、
  よしやただ、たまたま仏意にあひながら、
  榊葉のさして往生を願ふべし。
  花散る里に住むとても愛別離苦のことはり、
  まぬがれ難き道とかや。唯すべからくは、
  生死流浪の須磨の浦を出でて、四智円明の明石の浦に澪標みおつくし
  いつまでもなりなむ、唯蓬生よもぎうの宿ながら、
  菩提の道を願ふべし、松風の吹くとても、
  業障ごうしようの薄雲は晴るること更になし、秋風聴えずして、
  紫磨忍辱しまにんにくの藤袴、上品蓮台じょうぼんれんだいに心をかけて、
  誠ある七宝荘厳の真木柱の下に行かむ。
  梅が枝の匂ひにうつる我心、藤の裏葉に置く露の、
  その玉葛たまかずらかけしばし。槿あさがおの光たのまれず、朝には、
  栴檀せんだんの蔭に宿木やどりぎ名も高き、官位つかさくらいを東屋の内にこめて、
  楽みさかえを浮舟に喩ふべしとかや。
  これも蜻蛉かげろうの身なるべし、
  狂言綺語きぎよをふり捨てて助け給へと諸共に、
  鐘打ち鳴らし回向も既に終りぬ。
  よくよく物を案ずるに、紫式部と申ししは、
  彼の石山の観世音、仮にこの世に現れて、
  かかる源氏の物語、是を思へば夢の世と、
  人に知らせむ御方便、実に有難き誓ひかな。
訳詞 そもそも桐壺がなくなって、火葬の夕べの煙が早くも仏心の空に上って成仏された。箒木の巻にある雨夜の品定の言葉はついに菩提樹の花と散ってしまった。
空蝉のような空しいこの世をいとおしく思って、人の身は夕顔に宿った露のような命であることを知り、若紫色の雲の迎えを受けて極楽の末摘花の台に座し、紅葉の賀の落葉はただ、たまたま仏の御教をうけて、榊葉を頭にさして往生をお願いしなさい。
花散里に住んでも、愛別離苦の道理はまぬがれにくい道であるという。唯もう生死の間を彷徨う源氏は須磨の裏に流浪し、それから抜け出て、四智をかねそなえ、明るい明石のうらに澪標のように身を尽くし、打ち込んで、何時までもここに住み続けよう。
唯この世は雑草の繁った宿ではあるが、極楽に往生して仏果を得ることを願うべきである。松風が吹くとも悟りの障をなす悪業の薄雲は晴れることは一向にない。秋の風の音は聞こえず、紫磨の仏体に忍辱の藤袴をつけ、上品の蓮台に座すことを心がけ、誠のこもった七宝でかざられた荘厳の真木柱のもとに行こう。
俗世間離れした梅の枝の匂いに我心をうつし、藤の裏葉においた露、玉葛に置いた露も束の間に消えてしまう。槿の露の光も頼みにならない儚いもので、朝日は栴檀の木の蔭に宿って、その名も高い官位を東屋の内に入れて楽しみ栄えることなどは、浮舟のようなものに喩えるべきものと言うべきであろうか。
これも蜻蛉のように儚い身である。狂言綺語などは打ち捨てて、お助けくださいと衆生もろともに鐘を打ち鳴らして回向は已にすんだ。よくよく物を考えれば紫式部と申す方は彼の石山の観世音が仮にこの世に人となって現れなさり、このような源氏物語をお書きになったのである。
これを思うとこの世の中は夢の世であると人に知らせる方便として記されたものであり、人を救ってくださる御仏の本当に有難い誓いであるよ。
補足 山田流箏曲。奥歌曲。
「源氏物語」の巻名を詠み込んだ供養のための願文を詞章とする。
前弾がつく。謡曲の「二段クセ」以下、ロンギを省略して、キリの部分を付した形。
普通、上下別々に演奏されるが、連続して演奏されることもあり、その場合には上の最後の部分が変えられ、下の前弾に当る部分は合の手となる。

~読み込まれている巻名~
「帚木」第2巻。「空蝉」第3巻。「夕顔」第4巻。「若紫」第5巻。「末摘花」第6巻。「紅葉の賀」第7巻。「榊葉」第10巻。「花散里」第11巻。「須磨」第12巻。「明石」第13巻。「澪標」第14巻。「蓬生」第15巻。「松風」第18巻。「藤袴」第30巻。「真木柱」第31巻。「梅ヶ枝」第32巻。「藤の裏葉」第33巻。「玉葛」第22巻。「槿」第20巻。「宿木」第49巻。「東屋」第50巻。「浮舟」第51巻。「蜻蛉」第52巻。
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