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須磨の嵐
[スマノアラシ]

ジャンル 地唄・箏曲
山田流
作曲者 山登万和
作詞 不詳
調弦 三絃: 三下り - 本調子
箏: 雲井調子
一 そもそも熊谷直実は、征夷将軍源の、頼朝公の臣下にて、
  関東一の旗がしら、智勇兼備の大将と、世にも知られし勇士なり。
  されば元暦元年の、源平須磨の戦ひに、功名ありし物語、
  聞くもなかなかあはれなり。

二 その時、平家の武者一騎、沖なる船におくれじと、
  駒を浪間にかけ入れて、一丁ばかり進みしを、
  扇をあげてよびもどし、互いにしのぎをけづりしが、
  見れば二八の御顔に、花をよそほふ薄化粧、
  かねくろぐろとつけたまふ、かかるやさしきいでたちに、
  君はいかねくろぐろとつけたまふ、かかるやさしきいでたちに、
  君はいかなる御方か、名のりたまへとありければ、
  したより御声さはやかに、我こそ参議経盛の、三男無官の敦盛ぞ、
  はやはや首を打たれよと、西にむかひて手を合わす、
  流石に猛き熊谷も、わが子の事まで思ひやり、
  落つる涙はとどまらず、鎧の袖をしぼりつつ、
  是非なく大刀をふりあげて、許せたまへとばかりにて、
  あへなくしるしをあげにけり。

三 むざんや花の莟さへ、須磨の嵐に散りにけり、
  これを菩提のたねとして、なきあと長く弔らはむ、
  心おきなく往生を、たげたまわれと言ひのこし、
  青葉の笛をとりそへて、八島が陣へと送りしは、
  げに情あるもののふの、心のうちぞあはれなる。
訳詞 1.そもそも熊谷直実は、征夷大将軍源頼朝公の臣下で、関東一帯の大、小豪族の長として、智と勇を兼ね備えた、世に知られた勇士であった。それゆえ、元暦元年の源平須磨の戦いに、功名を立てた物語は、聞くも胸を打つものがある。

2.平家が合戦に敗れ、平家の兵は海岸から船に乗って海上に逃れ去っていたとき、逃げ遅れた平家の武者一騎、沖に浮んでいる平家方敗走兵の収容船に乗り遅れまいと、浪間に駒を乗り入れ一丁ばかり進んだとき、熊谷直実は胚的を織って須磨の裏まで来た。よき敵を求めていた熊谷は波間に駒を乗り入れた武者を見て、扇を上げて呼び戻し、浜辺で激しく切り合い、やがて組打ちとなり、両刃の間にドット落ちたが、熊谷は平家の武者をたやすく組み伏せて顔を見れば、十六、七歳の若い武者で花のように美しく薄化粧をし、お歯黒を黒々とつけていた。このような優雅な装いをしている人なので、君は如何なる御方か、名乗り給えと熊谷が申せば、組み伏せられた平家の武者は下より、我こそ参議経盛の三男、無官の大夫敦盛である、はやはや首を打たれよと、極楽浄土ありとう西方に向かって手を合わした。さすがに猛き熊谷も、我が子小次郎が今日の一の谷の戦いに、薄手を負うたのにも心配しているのに、この若殿が敵に討たれたと聞く父母はさぞかし悲しみ歎かれることであろうと、落ちる涙はとどまらず鎧の袖を絞るほどであったが、味方の手前是非も無く太刀を振り上げて許せたまえとばかりに、はかなくも首を打ち落とした。

3.無残にも花の莟まで、須磨の嵐に散っていった。熊谷は世の無常を感じ、煩悩を断ち切って悟りの境地に入り、敦盛の霊を弔いたい。現世に心を残すことなく極楽浄土に生まれ変られ給えと言い残し、敗走した平家が再び陣容を立て直した讃岐国八島なる敦盛の父の元に、青葉の笛を送り届けたという話は、実に花も実もある情ある武士の、心のうちは奥ゆかしい限りである。
補足 山田流箏曲。
「平家物語」「源平盛衰記」などを原拠とする平敦盛の話をつづった内容。
『小督の曲』と同型の前弾がつく。
地(拾い地・砧地など)を合わせる。
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