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松の羽衣
[マツノハゴロモ]

ジャンル 地唄・箏曲
山田流
作曲者 移曲者不詳
調弦 箏:半雲井調子-四上り平調子
三絃:二上り-三下り-本調子
  [前弾]

  げに長閑のどかなる朝霞あさかすみ、富士をむかひに三保が崎、
  松原遠く海広うみひろく、緑を浸す波の上、
  吹く春風の声につれ、虚空こくうに響くものの音も、
  妙なるかをり花降りて、及びなき身のながめにも、
  心そらなる景色やな、風さそふ、
  雲のうき波たつと見て、釣りせで人や帰へるらむ、
  是れはこのあたりに住む伯竜はくりようと申す漁夫にて候ふ。
  見渡せばあれなる松に美しき衣かかれり、
  取りて帰へり人にも見せ、家の宝ともなさばやと存じ候ふ。
  のう、其衣は天人の羽衣とてたやすく人に与ふべきものならず、
  返し給へと言へば、えに岩をもなづる世のためし
  聞き伝へ給ふらめ。
  そもこれなるが天人の羽衣にて候ふかや。
  末世のきどくに止めおき返しはせじと引きとれば、
  今はさながら天人も、衣なくては羽ぬけ鳥飛行ひぎやうの道も絶えはてて、
  あがらむとすればつばさなく地に住む時は下界なり。
  せんかた涙露の玉、かざしの花もうちしをれ、
  五すゐの姿めの前に、降りさけ見れば霞たつ、雲路の雁も声そへて、
  千鳥かもめの沖津波、立つか返るか返るか立つか、
  西も東も春吹く風の、空のたよりもなつかしや、
  うらめしやとてうちかこち、なげき入るこそ憐れなれ。
  あまりに見ればおんいたはしく候ふ程に、
  衣をば返し申さうずるあひだ、彼の天人の舞曲をかなで給ふべし。
  されども衣を着たまはばそのおきてとて、日日夜夜にちにちよよの勤めごと、
  我も数ある天少女をとめ、羽衣かろく着なしつつ、
  かりに吾妻あづま駿河舞するがまひ霓裳羽衣げいしやうういのひとふしも、
  雨に潤ふ花のかほ、雪をめぐらす雲の袖、

  [合の手]

  風の通ひ路かすみてそめて、慣れし御空みそらに立ち帰る、
  祝しの楽もとりどりに、波の鼓や松の琴、
  調べもともに声すみて、暫時しばしとどめよ乙女の姿、
  なほとどまりてその名さへ、常盤ときはの蔭と栄えつつ、
  羽衣の松若枝わかえさす君が御代みよこそひさしけれ。
訳詞 本当に長閑な朝霞である。富士を向いに眺めて三保が咲き松原が遠く開けて広い海が続き、緑を浸す波の上を吹き渡る春風の声につれて空に響く音も妙なる調べを奏でている。
言うに言われない香りがし、花が散ってきて、賤しい身分の漁夫にも心が捕われて茫然とする位の景色である。
風の誘う雲の浮波が立ち、海が荒れると重い危険を感じて釣りをしないで帰るのであろう。
ここに現れた者はこのあたりに住む伯竜という漁夫である。
見渡すとあの松に美しい衣がかかっている。
とって帰り人に見せ、家宝にしたいと思うのである。
もし、その衣は天人の羽衣と申し、たやすく人に与えるものではない。
返して下さいと言えば、それにつけて、天人の羽衣をもって巌を撫でても磨り減らないと歌った。
つきない世の例を聞き伝えておられるでしょう。
それならそもそもこれは天人の羽衣なのですが、後の世のすぐれた記念品として留めて置いて、返しはしますまいと取り上げれば、こうなれば天人もちょうど羽抜け鳥で、飛行の方法もなくなって、飛び上がろうとすれば翼なく、地に住もうとすれば天人の住めない人間界である。
いたしかたなく涙が流れ、かざしの花もしおれてしまい、五衰の姿が目の前に見えるのである。
遠くから仰いで見れば霞が立ち、雲路の雁も声を添え、千鳥やかもめの飛ぶ沖の波、飛び立つか飛び返るか、西も東も春風が吹いて、空からの便も懐かしいことである。
怨めしいことよと言いたてをし嘆き入るのは憐れである。
見ればあまりに気の毒であるから、衣を返してあげよう。
それに当っては天人の舞曲を奏して下さい。
しかし返せばそれを着て天にそのまま帰ってしまうでしょう。
いや、そんな偽りごとをするのは人間界にあること有明の月の都での掟として、毎日毎夜偽りのない行いである。
自分も数ある天少女中の一人です。
羽衣を軽く着て、吾妻の舞なる駿河舞や霓裳羽衣の曲を舞い出した。
その美しさは雨に濡れた花の顔に雪をめぐらす雲の袖である。
風の吹き通う路は霞み染めて住み慣れた月の世界の空へと帰って行く祝いの楽が奏された。
浪の鼓に松の琴調べは共に声が澄み渡り、暫くの間でも天女の姿をこの世に留めて置いてくれ。
なお止って、その名は常盤の蔭と変りなく栄え、羽衣の松には若枝が生えて君の御代の久しく栄えることであろうと祝うのである。
補足 山田流箏曲。浄瑠璃物。
一籌節の同名曲を移曲したもの。
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